【省線時刻表】1940年10月 上野駅東北本線信越本線常磐線 JAPAN UENO station ;TOHOKU LINE time table 1940

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  • Опубликовано: 22 авг 2024
  • 【時刻表の紹介】
    1940年10月ダイヤ改正後
    東京駅 東北本線 信越本線 常磐線 時刻表です。
    世界情勢の緊張感が増す中の日本の鉄道網
    当時の人たちの生活を想像しながらご覧ください。
    当時の雰囲気を味わうための参考としていただければ幸いです。
    【内容の訂正】
    3:24 準急 日光ゆき(801)の停車駅の案内に誤りがありました。
    上野(8:20)→赤羽(8:32)→宇都宮(9:52/9:56)→今市(10:34)→日光(10:47)
    が正しい内容です。
    ご指摘いただいた方、ありがとうございました。
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    #国鉄 #鉄道 #昭和15年 #日本国有鉄道 #発車時刻表 #時刻表 #東北本線 #上野駅 #戦前 #過去鉄 #常磐線

Комментарии • 97

  • @tetsu0804
    @tetsu0804 7 месяцев назад +12

    「仙台」「新潟(上越線経由)」が思ったほど時間がかからないことと、アプト式の横軽の大変さがよくわかります。
    「日光」行、「成田」行がまだしっかりとあるのは本格的な戦時輸送体制に移行する前なのですね。
    あと、なにげに「青函夜行便」の便利さが出ていますね。

  • @apachegamma
    @apachegamma 7 месяцев назад +7

    高崎や宇都宮に行く路線があんまり時間変わらないのが意外ですね。
    磐越西線経由の新潟行きがあって感動。
    子供の頃磐越西線沿線に住んでて、住んでた最寄りの駅がちょうど1940年開業だったので、あんな小さな駅に上野からの列車が停車してたんだとか想像してました。

  • @channelsada3849
    @channelsada3849 7 месяцев назад +7

    初の1コメです!
    昔から上野駅は、東北線、常磐線、上越線、信越線など、東北と甲信越地方を結ぶ大幹線の始発、終着駅です。なので、東北、甲信越系列の寝台車が次々と出るのが当たり前の時代がありましたね。今も、四季島のホームがあるぐらいですからね。

    • @tomoyankun
      @tomoyankun  7 месяцев назад +1

      いつもご視聴とコメントありがとうございます。
      そして、動画投稿直後のコメントありがとうございます。
      現在はターミナル駅としての印象は少しずつ薄れてきているように感じますが、それでも駅には現在もその面影が残っていますね。上野駅から札幌を目指して北斗星に乗った時が懐かしいです。

  • @user-ud6ph2yv9s
    @user-ud6ph2yv9s 7 месяцев назад +8

    昭和初期の上野駅のダイヤは東京駅とは違った趣がありますね。
    衝撃的だったのは上野から樺太まで連絡する列車が設定されていたことと、北陸線経由で大阪まで直通する列車があった事。
    特に後者は北陸新幹線の遠いご先祖様という感じがしました。

  • @a378685085
    @a378685085 7 месяцев назад +9

    動画お疲れ様です
    西が欧州連絡なら北は北海道から樺太方面が主軸。
    ただ青函連絡も戦争末期には爆撃を避けるために時刻表に載らなくなる状態に…
    昭和15年は戦前期における最後の輝きと戦争の足音を同時に感じる時刻表になりますね

    • @tomoyankun
      @tomoyankun  7 месяцев назад

      いつもご視聴とコメントありがとうございます。
      時刻表の表紙にも『国策輸送に協力』の文言がある一方、時刻表の中にはホテルや観光の広告が掲載されており、変わりつつある空気感が伝わってきますね。

  • @user-wc7rk2qx6k
    @user-wc7rk2qx6k 7 месяцев назад +25

    樺太行けるじゃん!ロマンあるなぁ。

    • @user-lv1ui3sz9t
      @user-lv1ui3sz9t 3 месяца назад

      本当にそうですよね!早くロシアから北方領土と南樺太を取り戻してまた樺太まで行けるようになって欲しいです!

  • @soundfeather9396
    @soundfeather9396 7 месяцев назад +8

    この時代に青春18きっぷがあったら!と良からぬ事を考えてしまいました!
    でも、絶対楽しいだろうなー

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад

      いやいや、鉄道は兵器とされるほどの時代ですのでかなりの苦労があったものと思います。
      陸軍や海軍の基地の周辺は要塞地帯とされ、防諜のためよろい戸を閉じるなど、車窓をのんびり眺める訳にもいかなかったそうです。

  • @NSUDOH
    @NSUDOH 7 месяцев назад +4

    8:20発の普通(準急)東北線経由 日光行き 801列車
    停車駅が高崎9:39、渋川10:10と上越線の駅が表示されてますが違いますよね。

  • @user-zt4fd4ig7o
    @user-zt4fd4ig7o 7 месяцев назад +2

    明けましておめでとうございます。
    新春の動画見ました。
    上越線経由、東北本線経由の列車、どちらも北国で、見ていて懐かしさと身内を想ういいお年玉でした。
    やっぱ見ていて、この動画はいつも落ち着くね。
    今年も宜しくお願いします。
    というか…
    大阪、米原に行く列車があるとは…。
    西の玄関は東京、北の玄関は上野のイメージが崩れるね…。

    • @tomoyankun
      @tomoyankun  7 месяцев назад +1

      あけましておめでとうございます。
      いつもご視聴とコメントありがとうございます。
      北陸本線経由の米原行きと大阪行きの列車がまさか存在しているとは想像もしなかったので、大変驚きました。
      年明けから大変な出来事が続きますが、少しでも落ち着ける時間を提供できればと思います。
      今年もどうぞよろしくお願いします。

  • @TSUYOS185
    @TSUYOS185 7 месяцев назад +8

    いつもありがとうございます。
    蒸気機関車牽引の客車列車であるにもかかわらず、東京近郊とされる宇都宮、熊谷、土浦あたりまでは今(2024年)と比べてさほど変わりない所要時間であったことが驚きです。
    速度は速くなれど当時と比較して駅の新設があったからこそのものと思います。
    北陸方面の大阪行きや米原行きは東京から富山、金沢、福井や北陸3県から京阪神との列車を繋いだものですね。途中で区切ることも出来ないのでかような設定となったのでしょう。戦後の急行の北陸号や特急の白鳥号でも同様な設定だったものと思います。

    • @tomoyankun
      @tomoyankun  7 месяцев назад +1

      いつもご視聴とコメントありがとうございます。
      蒸気機関車が煙を吐き出しながら、全力で走っていたのでしょうね。
      仰る通りで、戦後の北陸号や白鳥号を思い出す設定だと感じました。乗り通しの需要は無かったにしても、関東と北陸、関西と北陸とをそれぞれ結ぶ貴重な列車だったのでしょうね。

    • @scrs9285
      @scrs9285 7 месяцев назад

      特急の最高速度130km/hの現在とさほど変わらない驚き

  • @spy007ex4
    @spy007ex4 7 месяцев назад +1

    長距離の普通列車、思った通り沢山ありました。列車番号の系統(100番台=東北本線、400番台=奥羽本線等)もこの頃すでに確立されていたのですね。しかし樺太はびっくりです。深夜に5分差で出る新潟行き、一歩間違えると磐越西線になるのですが、意外に新潟着の時間差が大きくないですね。あと、信越本線経由の長距離が多いのもびっくりでした。

  • @user-xy2cm5kq1q
    @user-xy2cm5kq1q 7 месяцев назад +7

    12:54 実質樺太行き列車・・・日本がまだ樺太を統治していた時代とはいえ、凄すぎです。

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад +5

      戦前の時刻表復刻版を見ると、朝鮮半島あるいは大連からハルピン、満州里を通り、そこからシベリア鉄道を経由し巴里(パリ)まで行く列車の時刻表が掲載されています。そのスケールの大きさに驚くでしょう。

    • @user-xy2cm5kq1q
      @user-xy2cm5kq1q 7 месяцев назад +2

      @@kataakeo7730 様。
      極東から巴里迄の時刻表。範囲が地球規模の壮大なもので、その時刻表を見るだけでもワクワクしますね😄

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад +1

      @@user-xy2cm5kq1q 10日以上かかったようです。実際には戦争の関係で1939年頃まででしょうが、もし大陸横断の時刻表動画があれば、とても面白いかもしれませんね。

  • @user-xx4hx7zj3d
    @user-xx4hx7zj3d 7 месяцев назад +2

    新潟行きの急行は、昭和戦後で言えば「佐渡」みたいな感じになるんですかね。こうした新潟方面の列車には若き日の田中角栄元総理も乗っていたのではないかと思うと、なにか歴史が身近に感じられますね。

  • @user-jm8wk1kz7k
    @user-jm8wk1kz7k 6 месяцев назад +1

    当時の普通列車でも意外と時間かからないのが驚き😌

  • @hanenariairportlimitedexp.1858
    @hanenariairportlimitedexp.1858 7 месяцев назад +2

    新年1本目の動画作成お疲れ様です。
    戦時中の時代ですので、あまりニコニコして乗れたものではないと思いますが客車の長距離旅は旅情があっていいですね。
    サハリンは一度も行けてないですが、D51やキハ58が静態保存されているみたいですので行ってみたいです。

  • @user-rt4bj6wf5l
    @user-rt4bj6wf5l 7 месяцев назад

    毎回楽しみにしてます。
    信越線の停車駅に田口駅があり懐かしかったです。昔、新潟の親戚に行く際よく通りました。
    駅名が妙高高原駅に変わってしまい「味気ない駅名になったね」と両親共々残念がった事を思い出しました。

  • @masahatsu8920
    @masahatsu8920 7 месяцев назад +3

    盛岡まで15時間か…。急行で青森まで13時間45分、さらに夜間青函連絡船へ乗り継いで函館に翌朝5時。
    80年以上も前から早朝よりフル稼働。鉄道の力は凄い。

  • @user-id9wf9lf9y
    @user-id9wf9lf9y 7 месяцев назад +3

    801の日光行きの途中停車駅の説明に高崎や渋川が含まれていることから、ほかの列車と混ざってしまっているものと考えられます。どうでしょうか。

  • @ykunisan4400
    @ykunisan4400 7 месяцев назад +1

    宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」に、急行新潟行701列車に乗車して友達と谷川岳に行った記載がありました。
    昭和19年と戦時中で、旅行へ行くにも証明書が必要な時代。途中「何しに来たの?」と人に聞かれて、
    怖々と「山小屋を閉めに来ました」と答えられたと記されていたと思います。太平洋戦争前の輝いていた
    頃の時刻表ですね。樺太航路は魅力があります。寒そうですが(笑)。

  • @jops-tv4202
    @jops-tv4202 7 месяцев назад +1

    信越本線経由で関西方面に行ける列車があったのには驚きです、きっと北陸方面から関西に行く人への需要もあったのでしょう😊
    寝台車がついている列車もありましたが急行がメインで、普通列車で長旅をする人には大変だったに違いないでしょうね😅

  • @remilia10
    @remilia10 7 месяцев назад +1

    列車番号は行先路線系統別にパターン化されてて、100番台:東北本線(宇都宮以遠)、200番台:常磐線、300番台:信越本線、400番台:奥羽本線、500番台:東北本線(上野宇都宮間。現在の宇都宮線)、600番台:北陸本線、700番台:高崎線および上越線、800番台:日光線、900番台:その他(成田線・磐越西線など)、n00番台+1000:不定期・臨時列車、あとは優等列車(急行・準急):n00番台の1番(トップナンバー)から順番に下り奇数上り偶数、という感じですかね。何故か東北本線系統だけ宇都宮以遠と宇都宮線内で100番台500番台と分けてるのが気になりますが何故なんでしょう?

  • @hiryos3325
    @hiryos3325 7 месяцев назад +1

    急行大阪行きはダイヤを見ると、上野〜北陸への夜行列車と北陸〜関西への昼行急行を合体させたような列車ですね。北陸本線が単線で優等列車を多く走らせられない時代なので、一つの列車で両方の需要を賄おうという方策だったのかもしれませんね。
    樺太への連絡急行は戦前のエース格の列車だったのでしょうね。

  • @kataakeo7730
    @kataakeo7730 7 месяцев назад +2

    上野から信越本線経由の大阪行急行は、例の信越白鳥のルーツかもしれません。
    ただ、それだけでなく、信越本線経由の普通(米原行きを含む)も運行されており、もしかしたら東海道ルートが軍事的な攻撃でダメになっても行き来できるように何本か設定していたのかもしれませんね。
    もしかしたら、上と同じ発想で、このころは中央本線を走破する列車もあったかもしれません。

  • @oratorio51
    @oratorio51 7 месяцев назад +1

    601列車は戦後まもなく復活して、巡り巡って寝台特急「北陸」に至っています
    考え方としては、上野~富山・金沢・福井方面の乗客に富山・金沢・福井~大阪方面の乗客が入れ替わる様な感じで、結構乗車率は高かったと聞いています
    しかしながら、やはり運用的なものも有って上野~金沢と富山~大阪に分割した経緯は有り、昭和25年のダイヤ改正で急行列車にも愛称が付けられた第1期ですが、その時の命名された列車「北陸」以外は食堂車が連結されていたのに「北陸」だけは北陸地区~大阪は昼行列車であるにもかかわらず食堂車が連結されずに第1期命名の列車の中で唯一食堂車連結を逃してしまった急行列車でもありました

  • @miraichiba
    @miraichiba 7 месяцев назад +3

    今見たいに中距離の列車があまり無く、長距離の列車それも普通列車が多いですね。また準急列車の設定があるのも特徴的ですね。

    • @tomoyankun
      @tomoyankun  7 месяцев назад +1

      いつもご視聴とコメントありがとうございます。
      現在とは運転形態が異なる部分が多く、鉄道の役割も現在とは少し違っていたことを想像させますね。

  • @user-dg3yu4ns1u
    @user-dg3yu4ns1u 6 месяцев назад

    北へのロマン溢れる。😊🫡👍

  • @user-jd8fl1ur6o
    @user-jd8fl1ur6o 7 месяцев назад +1

    19:00の常磐線経由の青森行急行に乗車して、連絡船や乗り継いで南樺太まで行くダイヤって凄いです。
    今では考えられないし、南樺太がソビエト(今はロシア)に不法占領されていて、とても無理ですね。
    京浜東北線は1932年に線増で分離されて電車化されてます。

  • @toshitani2705
    @toshitani2705 7 месяцев назад +2

    盛岡まで15時間!!時代は下って電車特急のやまびこで6時間。今や、はやぶさで最速2時間6分。昔は旅というものがいかに大変な一大行事だったのか判りました。

  • @user-bs5eb8ys2s
    @user-bs5eb8ys2s Месяц назад

    当時、上野から特急は無かったが、19時発青森行き急行201列車は、当時の特急「富士」や「櫻」に匹敵する表定速度で、その俊足ぶりから宮脇俊三氏の「時刻表昭和史」で、「東北特急とでも言える」と記されており、青森から青函連絡船、函館から稚内桟橋、そして樺太へ接続できる上、寝台車や食堂車も連結されて、上野からの列車中では最も華のある列車だったようですね。
    因みに、戦前にロシアに亡命した事で有名な女優の岡田嘉子は、この列車を使って樺太経由でロシアに向かったらしいです。

  • @lovebuneary0519
    @lovebuneary0519 7 месяцев назад +3

    日光行きや成田行きは寺社の参拝客(日光東照宮、成田山新勝寺)輸送がメインでしょうね

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад +1

      日光は観光目的でしょうね。(そのように記載された資料もネット上にありました。)
      そう考えると成田も観光目的なのでしょうが、総武線~千葉~成田のルートよりも常磐線回りの列車が多く設定されていた点には若干の疑問があります。
      一つの仮説としては、総武線~千葉~成田のルートは旅客需要よりも軍事利用が多く、それほど多くの観光旅客列車を設定できなかったからかもしれません。(船橋~習志野~佐倉は軍の施設が多く、そのための輸送にリソースを割いていたのかもしれません。)

    • @lovebuneary0519
      @lovebuneary0519 7 месяцев назад +1

      @@kataakeo7730 ありがとうございます
      東海道線の横須賀行きみたく、軍事輸送でしたか
      横須賀は海軍でこちらは陸軍でしょうね

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад +1

      @@lovebuneary0519 そうですね。
      ただ、もう少し調べてみましたが、小生の事実誤認かもしれません。
      このころは、総武線から千葉経由で成田線に入る国鉄ルートと京成線ルートは、1940年ころはやはり競合関係にあったようであり、1940年頃は若干京成有利だったようです。
      では、なぜ常磐線から成田線に入るルートの列車が高頻度で運行されていたかというと、以前は常磐線+成田線(我孫子回り)と総武線経由がいずれも別会社だったため、成田山輸送が競合関係にあったそうです。その頃、我孫子~成田間の利用者(顧客)を獲得した名残で運行されていたと考えるしかないようです。

    • @tomoyankun
      @tomoyankun  7 месяцев назад

      いつもご視聴とコメントありがとうございます。
      成田や日光の考察、大変興味深く勉強になりました。
      成田線建設の際には、陸軍施設付近を通るルートにし、建設の後押しをしてもらった話もありますね。

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад

      成田行きは午前中は成田山輸送がメインだったと考えられますが、午後は都心に野菜を届けた行商の方々の帰宅や数はさほど多くはないものの電化区間から外れたところ(柏や我孫子など)への輸送を受け持っていたのでしょうね。
      総武線はこの頃には千葉駅まで電化され、通勤客や習志野の軍の関係施設への往来が増え、成田までは手が回らなかったかもしれません。戦後は京成が開運号を出すなど大きく集客に努めたものの国鉄側は昭和43年に成田線が電化されるまでは準急や千葉始発の普通列車が主体でした。

  • @yonayonamytube
    @yonayonamytube 7 месяцев назад

    101レを105レが追い抜くダイヤ興味深いです。また201レの樺太方面連絡の解説ありがとうございます。
    BGMも轍を刻む音に聞こえてきます🙂再生速度2倍だと「絶気」を喚呼したくなります😆

  • @ninamori8521
    @ninamori8521 7 месяцев назад

    戦後の常磐線中距離列車は柏通過時代が長かったイメージですがこの頃は停車していたのですね😮

  • @user-fe9kg8ju9w
    @user-fe9kg8ju9w 7 месяцев назад +1

    723レとかの新潟方面の列車は時の山本五十六連合艦隊司令長官もお乗りになられたのかな。
    なんかロマンがあるな。
    戦時中の時刻表動画に平成の車両が出てくると謎の安心感があったな

  • @user-yh2uu8cq3f
    @user-yh2uu8cq3f 7 месяцев назад

    上越線沿線に住んでいるけど、深夜にも列車が走っていたのを考えるとびっくりする。

  • @gingaexpress6539
    @gingaexpress6539 7 месяцев назад

    仙台行きでも常磐線経由と東北本線経由があるなど、同じ行先でも経路が違う列車が存在するのは上野駅の特徴の一つだと思います。
    信越本線経由の新潟行きは、上越線が完成する前の名残でしょうか?
    信越本線経由の急行大阪行きは、後年の急行能登と急行ゆのくにを合わせたような列車ですね。
    信越本線経由の普通大阪行き…こんな列車を設定する発想にド肝を抜かれました。今なら絶対ありえない列車ですね。

  • @user-ru4ln6er2w
    @user-ru4ln6er2w 7 месяцев назад

    57.11まで残っていた列車もありますね。
    なお当時の到着時刻表には池田(福知山線川西池田)始発というのも。

  • @kataakeo7730
    @kataakeo7730 7 месяцев назад +3

    今と大きく異なると思ったのが、以下のとおりです。
    1)上野発の特急が存在しないこと(すべて急行以下)。
    2)日光行(なぜか東北本線普通との併結が多い)、常磐線回りの成田行、両毛線経由小山行(長野行との併結が多い)が何本も運転されていること。まだ、東武との競合関係で優位だったのかもしれませんね。
      成田行なら、普通に考えると総武線から成田線に入った方が早いはずですが。(このころはすでに総武本線はお茶の水までつながっていたことからしても、よくわかりません。)
      もちろん今でも我孫子から成田に入る普通電車はあるはずですが、全体から見ても目立ちます。
      両毛線に入る列車が多かったのは、前橋~桐生方面への需要(繊維工業との関係)が多かったのでしょうが、このエリアは東武伊勢崎線との競合関係はどうだったのでしょうか?
    3)常磐線で富岡止まりの列車が散見されること。(福島県の富岡に何か軍事関係の施設があったのでしょうか?)
    4)寝台&食堂車がついた長距離普通列車が何本か運転されていたこと。(東北、北海道方面はあまり急がなかったのでしょうか?あるいはこのころは大陸連絡ではないので、優先順位が低かったのかもしれませんね。)

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад +3

      自己レスです。
      やはり富岡付近に「磐城飛行場」があり、ここで特攻隊の訓練養成をしていたようです。
      その場所はのちの福島第一原発に転用されたとか。歴史(というか土地)の業を感じてしまいました。

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад +1

      日光や両毛方面は東武はターミナルが浅草であったことが当時でもハンデだったのかもしれませんね。浅草へは銀座線や都電があったにせよ都心に近い上野駅から汽車で行けるのはメリットは大きかったものと思います。
      今の東武特急が北千住に停車するのは北千住自体が東京メトロ各線やTXの集結で東京のターミナルの一翼を担う駅への成長があったからこそのものです。
      成田方面はこの8年前まで総武線のターミナルが両国であったこと、さらには総武線の各駅停車の電車が頻繁運転をしており、房総にまで手が回らなかったこともあるのかなとは思います。
      さらには上野から成田を結ぶ京成電鉄と競合したこと、少ないながらも当時の電化区間の終点であった松戸から先の柏や我孫子あたりまでの輸送を考慮していたのでしょうね。

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад +2

      @@TSUYOS185 このころは、現在と異なり、都内から日光への鉄道輸送は、国鉄と東武がしのぎを削っていた時代のようです。そのため、国鉄も日光行を多く走らせていたようです。
      北千住に東武特急が上下線とも停車するようになったのは1990年代であり、それが最終的に日光への輸送につき、東武がJRに勝利することになったのかもしれません。

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад +2

      @@TSUYOS185 成田線の方は、調べてみると経緯がもう少し複雑で、もともと常磐線(旧日本鉄道)&成田線(旧成田鉄道)がこのルートで成田山観光を強化する列車を走らせ、これに旧総武鉄道(総武線等)が総武線経由での成田行の列車を走らせて競合していたようです。
      いずれもその後官鉄に買収されこの競合は消滅したはずなのですが、おそらく我孫子~成田間の顧客需要があったため、このころまで高頻度で運行されていたと考えるしかないでしょう。
      なお、総武線回り成田行の国鉄と京成はその後競合関係になったので、総武線経由成田行も相応に運行されていたと思われます。

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад +1

      上野から成田は1時間30~40分程度、さらには1時間に1本あったことを考えると成田山参拝で京成との対抗も考えていたのでしょうね。
      この他、既にこの時代には成田線から東京方面への行商の方々が多数おられたとのことです。午後の成田行きは行商の方々の帰宅の際にも使われていたのでしょう。
      戦後もかなり後まで成田線から上野行きの列車に行商の方専用の車両があったそうです。

  • @raigo045
    @raigo045 7 месяцев назад +3

    普通青森行きに乗ってみたいような怖いような。降りる頃にはお尻が壊れそう

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад

      今と違い長距離は鉄道が当たり前の時代でしたからね。
      対米戦争が激しくなる頃には通路側の肘掛けが外され、一つのボックスに6人がけと言うこともあったようです。
      大きな駅での長時間停車の際にはホームの洗面所で煤まみれになった顔を洗ったり体を動かしたりしたのでしょう。

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад

      実際、お手洗いに行ったり、ゴミを捨てに行ったりして立つためか、小生は長時間鉄道などに乗ってもお尻が壊れるような体験をしたことはありません。30分くらい停車する列車にのれば、途中下車もしますし、駅で買い物をすることもあります。そういうことをせずに座り続けられる人はすごいと思います。

  • @Flamethrower2579
    @Flamethrower2579 6 месяцев назад

    信越本線・北陸本線に向かう列車って、北陸新幹線と全く同じ需要なんじゃないと思うのです。来月は東京発北陸新幹線経由敦賀行もできるし、もし北陸新幹線が完成すれば、東京発北陸新幹線経由新大阪行もできそう。例えば、東京側の速達タイプが金沢以西各駅停車タイプになったり、大阪側の速達タイプが金沢以東各駅停車タイプになったりとか。

  • @takana4381
    @takana4381 7 месяцев назад

    23時25分発の常磐線経由青森行き203列車、戦後は折り返しの202列車と並んでヤミ物資の担ぎ屋が多く使う所謂「ヤミ列車」。当時のニュース映画で、上り202列車が松戸駅にて警察の一斉検挙が行われた映像が残っています。

  • @Hanaora
    @Hanaora 3 месяца назад

    普通青森行きの破壊力は抜群!

  • @user-ro1kt8pt2u
    @user-ro1kt8pt2u 3 месяца назад

    長距離の普通列車とか地獄かよ!と思ったけどかなり飛ばして走っていくんだな

  • @naoyasano8695
    @naoyasano8695 7 месяцев назад +1

    15:19 このルートはいずれ、北陸新幹線の東京~新大阪 間 運用で「ほぼ復活」することになるだろう。

  • @shio4748
    @shio4748 7 месяцев назад +1

    我孫子線経由の成田行きの本数が結構ありますね。
    京成本線対策でしょうかね。

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад

      この時代から遡ること30年以上前、国有化前は上野から我孫子経由と両国橋から千葉経由で成田山への輸送でしのぎを削るほどでした。成田鉄道では喫茶室を設けていたほど。
      1933年に寛永寺の下に京成が乗り入れ、それぞれ競争していたものと思います。
      今は成田山輸送は京成と総武線快速になりましたね。

  • @exp.m.k.2300
    @exp.m.k.2300 7 месяцев назад

    昔、青春18きっぷで上野ー青森間を常磐線経由で行ったのを思い出してしまいました...

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад

      同じく。朝に上野を出発すれば、夜に青森まで行けました。当時、上野発仙台行の普通に乗った記憶なのですが、その頃の時刻表を調べても、平(いわき)駅止まりばかりで、実際には平で対面で乗り換えたのかもしれません。

    • @exp.m.k.2300
      @exp.m.k.2300 7 месяцев назад

      @@kataakeo7730 さん
      確か上野ー平間は403系、平で455系仙台行に乗り換え、仙台で乗り換えた青森行はED75牽引の50系客車でした。5時ごろ上野を出て(てゆうか東京まで大垣夜行に乗っていた)盛岡に17時ごろに到着、そして終点青森には23時前に到着だったと思います。青森からは青函連絡船深夜便檜山丸で函館へ行きました...

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад

      @@exp.m.k.2300 そのルートで乗ったときは、実は青函トンネルが開通してからであり、仙台以北もすべて電車でした。仙台付近から盛岡までの普通電車が、なぜか583系の間合い運用で驚きました。
      盛岡でわんこそばを食べてから青森行の普通電車に乗りましたが、おそらく23時よりは早く着いたと思います。

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад

      @@kataakeo7730 さま
      青函トンネルが出来た頃であれば仙台付近の普通で583系の改造車が走っていました。715系というものです。
      天井が高く開放感があり、ボックス席があったものの一部はロングシートに。さらには乗車口は折戸で幅も狭いもの。ラッシュ時には苦労されたそうです。程なく455系や719系に置き換えられました。
      今や東京の通勤電車とほとんど変わらない車両が走る時代に。驚きです。

    • @kataakeo7730
      @kataakeo7730 7 месяцев назад

      @@TSUYOS185 改造車は、確か583系の顔面を人工的に普通電車(かまぼこみたい)に作り替えたものでしょうが、小生の記憶をたどる限り、そうではなく583系電車の方向幕に「普通」と書かれていたのが入線してきたので、驚いた次第です。もちろん、車内は昼行用のボックスシートで、天井はそんなに広くなかったと思います。ただ、電車の塗装が特急の青色ではなかった記憶です。
      後日、583系の改造車を「鉄道ファン」等の雑誌で見かけて、583系が余っていたのだと認識しました。
      なお、松島駅(たぶん)の駅員のアナウンスが思いっきり東北弁で度肝を抜かされたことも覚えています。

  • @user-F164
    @user-F164 7 месяцев назад +1

    東北本線経由の高崎行って事は小山から両毛線に入るのか!

  • @Karimia_clover
    @Karimia_clover 7 месяцев назад +1

    上野から汽車、船を乗り継いで樺太へ観光に行ける時代が確かにあったんですね...

  • @user-gp4tm9ni3j
    @user-gp4tm9ni3j 7 месяцев назад

    上野駅の東日本での帰省は今も昔も賑わいを振るっていた
    普通列車でも夜行で走行したから、道中は寝て移動ができたと思う
    現在は新幹線でかなりの時間短縮になり、帰省しやせくなりました

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад

      夜行列車で寝るとはいえ大半はボックス座席、それでも座れない方は床に寝ていたほどです。
      しかも客車でしたので駅を発車するごとに汽笛の音と連結器のショック。それで起きた方もかなりいらしたのではないかと思います。
      大きな駅ではホームに洗面台があり、機関車の煤や寝汗を洗い落としていた方が多かったものと思います。

  • @user-do8wk3mx9k
    @user-do8wk3mx9k 7 месяцев назад

    この頃の上野口はC51が主役だけど、流線型を含むC55も少数いたが、宇都宮にはC57 1が前年に水戸から転入。大宮鉄博のC57 135も高崎に新製配属され、きっと上野や尾久で顔を合わせていたのだろう。

  • @hc-ir2dr
    @hc-ir2dr 7 месяцев назад

    主な停車駅の柏原は現在は黒姫、田口は現在は妙高高原ですね。

  • @HwanSangHyang
    @HwanSangHyang 7 месяцев назад +1

    同時に二つの列車があるのは、途中に分離しますか?

    • @tomoyankun
      @tomoyankun  7 месяцев назад +1

      いつもご視聴とコメントありがとうございます。
      同時に発車する2つの列車は、別々の線路を使用して同じ時刻に発車しています。
      行き先が2つある列車は、途中に分離しています。

  • @sono1563
    @sono1563 7 месяцев назад

    801準急列車の停車駅はそちらで合っていますか?

  • @user-le4qc7rg4k
    @user-le4qc7rg4k 7 месяцев назад

    樺太まで行くのがあるのは、当時南樺太が日本の領土だった時代を物語っていますね。

  • @user-ct8lm1be8x
    @user-ct8lm1be8x 7 месяцев назад

    盛岡行きと日光行きが併結してたんですね。到着時間が12時間も違う((((゜д゜;))))
    他の列車も含めて、長距離鈍行全盛時代ですね。

  • @hieeeeeeeeeee
    @hieeeeeeeeeee 7 месяцев назад +1

    成田行きが結構多かったんだね

  • @msaghavengers3640
    @msaghavengers3640 7 месяцев назад

    15:27 の大阪行、北陸新幹線全線開業で運転されるであろう北陸まわりの新大阪行の前身、てことになるのかな
    金沢かどこかで分離が大半だろうけど、1日に何本かは直通があるといいね

  • @cv_tatsunosuke
    @cv_tatsunosuke 7 месяцев назад

    稚泊連絡船かある…

  • @user-gm2iz7hz1i
    @user-gm2iz7hz1i 7 месяцев назад

    出来ればBGMを明るくして欲しかった

  • @user-er4uw7pg1o
    @user-er4uw7pg1o 7 месяцев назад

    仙台行き105列車、化け物?
    他は蒸気牽引で、105だけEF57あたりが黒磯まで突っ走っていたとしても、こんなに差がつくのでしょうか?

    • @TSUYOS185
      @TSUYOS185 7 месяцев назад

      宇都宮まで1時間40分というのは今の普通電車よりも速いうえに、さらに仙台までは当時の10時発の急行と所要時間はほぼ変わりありません。今ほどではないにせよ仙台が東北の一大拠点として重要視されていた証です。
      前の準急列車(当時は乗車券だけで乗れました)を追い越すのも驚きでした。その準急は宇都宮までは駅を飛ばすもののその先の単線区間では交換のための待ち合わせなどで長時間停車があったのでしょうね。
      東北本線はこの頃はまだ大宮までしか電化されておりません。この頃の牽引機の主力はC51やC55でした。
      宇都宮電化ですら戦後の1958年でした。

  • @HIT84TIH
    @HIT84TIH 7 месяцев назад

    15:18 18:48
    北陸新幹線のご先祖的列車

  • @Kineosporia
    @Kineosporia 3 месяца назад

    小金井行きとか籠原行きとかがないから、違和感満載

  • @82inakamono87
    @82inakamono87 3 месяца назад

    それにしても普通列車ばかりですね。もちろんほぼすべてが蒸気機関車がけん引する客車列車ばかり。太平洋戦争が始めるだいたい1年前で、これから戦況が悪化していくにつれ、鉄道は終戦まで軍用優先になっていきます。